記憶の記録とオーラルヒストリーの『recordness(記録性)』
先月の14日、大阪のJR京橋の駅前で、京橋大空襲の被災者慰霊祭が
行われました。
私が小学生の頃、戦時中京橋に住んでいた祖母から戦争体験を繰り返し聞かされました。
「鉄砲玉みたいなんが空から次々降ってきて、防空壕っていうんか、あの中で、赤ちゃんやったあんたのお父さん抱いて、必死に布にうずくまって。
ほんまに怖かった。気がついたらまわりが静かになってて、あぁ、死んで天国にきたんやと思ったら、戦争が終わっとった。」
新聞に掲載された慰霊祭の記事(*1)を読むまで、この話は、戦争中の或る一日の記憶と終戦の日の記憶が混在したもので、空襲と終戦がそんなに近接しているはずがないと勝手に解釈していました。
オーラルヒストリーで収集したインタビューは、良質の記録ではなく、歴史的事実の証拠とはなり得ない、また、オーラルヒストリーのような活動はアーキビストの役割ではないとする指摘があります(*2)。
良質の記録であるかどうかはrecordness(記録性)が関係しており、「良い記録」には、真正性、信頼性、完全性、利用性の4つの要素が不可欠であるとされています(*3)。
人間の記憶は時と共に変化する傾向にあり普遍的ではありません。そのため、証拠性が薄く、記録としては「不完全」と言えるかもしれません。
しかし、元オランダ国立文書館長のケテラール氏は、「アーカイビング」は、「人の活動と経験の真正な証拠を、時を越えて伝達することを意味する」と述べています(*4)。従って、人々の記憶を何らかの形で記録し「アーカイビング」しようとするオーラルヒストリーは、ひとつの証拠であり、それらを収集保存することは、やはりアーキビストの役割であると考えられるのではないでしょうか。
彼は、記録は、「単なる行為の証拠や法的な意味での証拠にとどまらず、何らかの歴史的事実の証拠」であり、アカウンタビリティと記憶の両方を支えているとも述べています(*5)。
そうであれば、祖母の記憶は、まぎれもなく歴史の一部を裏付ける「記録」であり、オーラルヒストリーは、それでしか伝えることのできない歴史的事実の側面を示す証拠であると言えます。
時間の経過とともに消滅する人間の記憶。戦争を記憶している人々の数が減り、また、記録媒体のハイブリッド化が加速している今、資料保存に関わるすべての人々が、従来の記録の定義に固執することなく、「記憶」を後世へ残す方法のあらゆる可能性に挑戦し続けなければならないと思います。
*1 田所柳子、毎日新聞(夕刊)、2013年8月14日
*2 Greene, Mark A., et al., "The Archivist's New Clothes; or, the Naked Truth about Evidence, Transactions, and Recordness", *University of Michigan Sawyer Seminar*, Winter 2001, p13.
*3 小谷允志、今なぜ記録管理なのか=記録管理のパラダイムシフト―コンプライアンスと説明責任のために、2008、pp100-102
*4 エリック・ケテラール、児玉裕子訳、未来の時は過去の時のなかに―21世紀のアーカイブズ学、入門アーカイブズの世界―記憶と記録を未来に―翻訳論文集、2006年、p33.
*5 Ibid, p34.
ヘリテージサービス事業部アーカイブ担当 白川 栄美
英国国立リヴァプール大学大学院アーカイブズ学・記録管理学専攻修了。国文学研究資料館外来研究員、ロンドンロスチャイルド銀行アーカイブズ短期研修などを経て、現職に至る。日本アーカイブズ学会会員。