記録と記憶
アーカイブの訳語のひとつは、「記録史料」ですが、「何に」記録されているかが問題です。
通常は、紙やフィルム、最近では電子媒体に記録されることが多いのですが、これらの媒体だけで組織や個人の記録がすべてカバーできるかと言うと、ことはそれほど簡単ではありません。
行間を読む、眼光紙背に徹する、などと昔から言われますが、記録を取り巻く様々な事情いわば背景までも読み取らなければ、正しい認識や解釈は出来ないのではないでしょうか。
アーカイブの先進国オーストラリアのアーカイブ理論では、木の年輪までもが、木が記録したアーカイブであると論じています。
昨今、オーラルヒストリーの手法が注目されていますが、そのほとんどは、当事者の脳に記録されている「記憶」を呼び戻し、インタビュアーが記録するという手法をとります。作家の故吉村昭氏は、歴史の証言者がある時期から少なくなり、臨場感あふれる記述が出来なくなってきたので、戦史小説から手を引いたと語っています。
一方では、人の記憶ほどあてにならないものはない、とも言われますので、事実関係などを記録した年表などを手元において聞き出すことも必要です。
第二次世界大戦を実際に経験した人たちが年を追って少なくなり、体験の伝承の緊急性が叫ばれています。
また、企業ではいわゆる団塊の世代の一斉退職で、それらの人たちの「わざの伝承」が喫緊の課題となっています。
企業では、マイスター制度を採用したり、技の伝承の塾を開設したりと様々な手を打っています。
私的な記憶は、そのままではいつかはその人とともに消えてしまいます。
しかしその記憶は、「わたくし」を超えて、より大きな枠組みの地域や国の歴史の一部を構成し、集団のアイデンティティーになるのです。
外部機関が積極的にそれらを記録に留めおくという作業、そして万人がアーカイブにアクセスできるためのシステムが、いま求められています。